中国の古典「老子」を書いて、文字を書くことについて考える

こんばんは。毎日の歯磨きに時間が取られすぎている、くまさんです。

我ながらいい字が書けたので、お披露目させていただきます。

筆ペンで書いた「老子 」

趣味で写経のまねごとみたいな事をしていまして、中国の古典「老子」を時間がある時にちょこちょこ書いています。

漢字ばかりで何が書いてあるか分からないと思うので、現代語訳したものを引用してみたいと思います。

最上の善なるあり方は水ようなものだ。水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、誰もがみな厭(いや)だと思う低いところに落ち着く。だから道に近いのだ。

身の置きどころは低いところがよく、心の持ち方は静かで深いのがよく、人との付き合い方は思いやりを持つのがよく、言葉は信(まこと)であるのがよく、政治はよく治まるのがよく、ものごとは成りゆきに任せるのがよく、行動は時宜にかなっているのがよい。

そもそも争わないから、だから尤(とが)められることもない。

蜂屋邦夫訳註「老子」/岩波文庫

内容について私がとやかく言うことはありませんが、老子は私が好きな古典の一つです。そこまで長いものではないので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

自分を見つめ直す手段としての「手書き」

筆ペンでコピー用紙に書いているだけなので、本当の写経とは言えないかもしれませんが、やはり集中して文字を書くことは、自分を見つめ直すいい機会になっています。

小中学校の時に書道は習っていましたが、それ以降は特に筆を持つ機会がなく、仕事やプライベートでもパソコン作業が多くなると、自然に「文字を書く」という行為をしなくなってしまいました。

そこで、手書きで日記をつけ始めたところ、手書きの良さを改めて認識し、何か物事を考える時には、手書きでやる機会が増えました。すると、自然に「上手な字を書けるようになりたい」という気持ちが芽生え、写経のまねごととして「老子」を書いてみようと思い立ったわけです。

筆を使って文字を書くことは中学校以来ですし、最初は思ったような文字がまるで書けませんでした。何回か書いていくうちに、少しずつ昔の感覚は取り戻しますが、それでも昔には到底及びません。「なかなか上手くならないな〜」と途中でサボりながらも、ちょこちょこ続けるうちに、ふとした気付きがありました。

文字を書くためには、「とめ」や「はね」といった筆のさばきや、筆の運びといった、細かい要素がひとつひとつ積み重なって文字という形になります。同時に、文字の完成形を頭に思い浮かべた上で、バランスを整えて筆を運ばなければなりません。ミクロとマクロ、両方の視点で書かないと、上手な文字にはなっていかないんだな、ということに気付きます。

また、集中しながら文字を書いていると、その文字だけしか目がいかなくなってしまうことがあります。そうすると、その文字単体では上手くかけたと思っても、全体のバランスを見ると、文字が大きかったり線が太かったりすることがよくあります。書いている時にはいい文字だなと思ったのに、見直してみるとそんなことはないなんてこともしょっちゅうで。

こんな感じで、ちょっとした発見をしつつ、失敗しながらも少しずつ上達していくのって、やっぱり楽しいんですよね。作品としての完成度は決して高い物ではありませんが、書くことが色々なことを考えるきっかけになっているので、文字が上手くなる以上のメリットがあるなと思ったりもしています。

これからも「いい文字が書けたな」というものができたら、ちょっとだけ自慢させてください。

お付き合いいただき、ありがとうございました。

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